ライフドクター長谷川嘉哉の転ばぬ先の知恵(旧:介護事業の知的創造コンサルティング)

ビジネス、勉強、マネープラン、介護、ライフワークバランス……
認知症専門医であり、経営者でもある長谷川嘉哉が人生を10倍豊かにする知恵をお届けします。

インタビュアー/ポッドキャストプロデューサー:早川洋平(キクタス) 制作協力/和金HAJIME

第50回「『男と女』から『愛アムール』へ、『愛のコリーダ』から『サクラサク』へ」

2014年6月 3日 22:30

映画から認知症や介護を考えます。


■かつての二枚目俳優が演じる介護・認知症のドラマ
―今回は映画を題材にお話しいただけるそうですが

2012年製作の『愛、アムール』という映画をDVDで鑑賞しました。長年にわたって連れ添ってきた老夫婦が、妻の病を発端に次々と押し寄せる試練に向き合い、その果てにある決断をする姿を映し出す......というあらすじです。

主人公の妻の病気は私の専門分野なので、病状が手に取るようにわかりました。彼女は最初にTIA(一過性の脳虚血発作)を発症します。その後すぐに病院で受診したのですが、不幸にも手術が失敗し右の片麻痺が残ってしまいます(この場合失語が伴うことが多いのですが、映画の都合のためか言語機能は残っていました)。

自宅での生活は困難を極めます。介護ベッドが搬入され、週3回の訪問看護と2週間に1回の訪問診療は受けるものの、それ以外はすべて夫の負担。妻は移動、トイレ、入浴すべてに介助を要します。病気の進行に伴って妻が尿失禁をしてしまう段階では介護負担もピークになります。

リハビリも夫が少し動かす程度なので、妻の日常生活動作は悪化し、ベッド上での生活が主体となります。さらには嚥下障害、拒食、せん妄が出現。夫は思わず妻に暴力を振るってしまい、そしてついには......という結末です。

―とてもつらい気持ちになりますね。何か方法はなかったのでしょうか?

日本の介護保険制度であれば、この状態での在宅生活は可能だと思います。例えば週3、4回のデイサービス、月の1~2週はショートステイを使うなどして介護者の負担を減らすことができます。自宅にいるときは週2回ほど訪問リハビリを受けるとよいでしょう。こうすれば患者さんの日常生活動作も維持され、在宅生活が継続できます。フランスより日本の介護保険制度の方が進んでいると感じました。

ところでこの作品のなかで夫を演じている俳優、ジャン=ルイ・トランティニャンは1966年に「ダバダバダ......」のテーマ曲で知られる映画『男と女』で一躍有名になった人です。1986年には20年振りの続編『男と女Ⅱ』で再び話題になりました。36歳で『男と女』、56歳で『男と女Ⅱ』、そして82歳で『愛、アムール』。彼の実際の年齢に応じた演技をしていることに感心しました。

―映画『サクラサク』もご覧になったそうですね

この作品は父が認知症になったことをきっかけに、バラバラだった息子家族が絆を取り戻していく姿を描いています。私自身が認知症患者の元家族であり、その経験は認知症専門医を志した原点でもあります。途中、何度も目頭が熱くなりました。ここでは認知症専門医ならではの視点でいくつかコメントしたいと思います。

まずこの作品のスポンサーがジェネリックメーカーの東和薬品であることが目を引きました。従来なら認知症の薬を作っているメーカーがスポンサーになるところでしょう。これも時代でしょうか? 

さらに劇中では「あの日から認知症が始まった」というシーンがありますが、これは間違いです。認知症は突然発症しません。必ず予兆があります。「おかしいな」と思ったら先延ばしにせず早期に受診することが大事です。

認知症の父は藤竜也さんが演じていますが、彼の運動機能からすると典型的なアルツハイマー型認知症だと診断できます。ちなみにアルツハイマー型認知症は「良いときと悪いときの差=まだら」がないことが特徴です。いまだに「認知症=まだら」と考えている人が多いようですが、実はアルツハイマー型認知症は血管性認知症ほど「まだら」はありません。

中には「この作品はきれいごとを描いている」と思う人もいるでしょう。しかし、身内の人間が認知症を発症したときの両親の態度や行動が家族の礎(いしずえ)となることも決して少なくありません。これは私の経験からも言えます。

とはいえ全体としては在宅介護、家族介護を奨励しすぎている感があります。よって現実的には施設サービスを含めた介護をお勧めします。今は誰かが自分の人生を捨てて介護する時代ではありません。

かつて『男と女』に出演していたジャン=ルイ・トランティニャンが老老介護の役を演じ、『愛のコリーダ』が代表作の藤竜也さんは『サクラサク』で認知症を発症した老父を演じています。若いときに二枚目として鳴らした彼らも認知症を演じる時代になったのです。いずれ私たちも自分の人生のなかで認知症を演じることになるのかもしれません。(了)